『末期ガンの父を看取って』5年前の私の体験をお話ししました。

工藤聖子(さとこ)です。

 

なかなかブログの更新ができず、
すっかり遅くなってしまいましたが、

去る10月2日、
日本ホメオパシー医学協会(JPHMA)主催の、
プレコングレス
『自然な生き方でガンを乗り越える』
というイベントで、

5年前に末期ガンの父を看取った、
体験談をお話ししました。 

一番苦しかった自分自身の体験を、
多くの方に聞いてもらうということで、
発表前はなかなか心が大変だったんですが、

それでもなんとか本番は、
最後まで話すことができて良かったです。

発表を聞いた多くの方から、
「久しぶりに大泣きした。」
「自分の経験と重なった。」
「気づきがあった。」
と暖かいご感想をいただきました。

クライアントさんからも、
「もう一度聞きたい!」と、
リクエストがあったので、

発表内容を、
こちらでシェアさせていただきます。

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おはようございます。
東京、千葉、名古屋、またオンラインで、
ホメオパスとして活動しています、
工藤聖子と申します。
よろしくお願いします。

 

今回『自然な生き方でガンを乗り越える』
という講演ですが、
残念ながら
「乗り越えられなかった」お話になります。

それでもこのように
お話する機会をいただきましたことを、
感謝申し上げます。

今日はホメオパスとしてではなく、
一人の娘として、
末期ガンの父を看取ったお話します。

 

私たちが過ごした3ヶ月半

私は千葉に住んでいるのですが、
私の実家は札幌で、
父は札幌に住んでいました。

父は当時69才、
まだ現役で働いていました。

2015年12月に倒れ、
1月の検査入院で、
骨盤内で腫瘍があるとわかりました。

医師から、
骨盤内臓全摘という手術を勧められますが、
それを断り、

2月母と私で、父の看病をするため、
両親が千葉へと引っ越してきました。

その2月には父は、
寅子先生の相談会を受けることができました。

一時はかなり回復していた父ですが、
3月に体調が悪化し、救急車で運ばれ入院。

4月8日に亡くなりました。

倒れてから亡くなるまで、
たったの3カ月半の出来事でした。

 

 

私たちが悩み、葛藤したこと

その3カ月の間、一番悩んだことは、
手術をするべきかどうか、
手術を断ったけど、
本当にそれで良かったのか?

父が亡くなった後も、
受けた方が良かったのではないか?
ということでした。

8月末のアニマルコングレスで、
菊田先生も愛犬のハルちゃんのヘルニアに対して、
手術を受けるかどうか、
悩みに悩んだ葛藤について
お話しされていましたが、

ホメオパシーユーザーである
私たちにとって、
ここはとても悩むところだと思います。

お医者さんが勧める通り、
みんなと同じように、
選択することの方が楽ですが、

しかし自然な生き方を自ら選択する場合、
そこに責任も生まれますから、
とても難しいことではないでしょうか?

 

久しぶりに父に出会って・・・

父は2015年秋ごろから、
尿の異変を私に訴えていました。

しかし私が父にあったのは
夏に会ったの最後で、
私の仕事も忙しく、
あまり父の様態を気にかけることは
ありませんでした。

12月25日、
北海道にある短大で教授をしていた父は、
これまで責任をもって請け負っていた
学生たちの卒論の担当を終え、
それと同時にぱったり倒れてしまいました。

 

それまでどんなに体調が悪くても、
責任を全うするべく、
気力でなんとか
堪えていたのだと思います。

 

そのまま年末に入り、年が明け、
ようやく病院へ行き、
どこにあるかわからないけど、
とにかく腫瘍があることがわかりました。

 

たまたま用事があり、
札幌に帰省した日が、
腫瘍があるとわかった日でした。

 

病院で父の様子を見た私は、
大変驚きました。

すっかり痩せこけていたからです。
そして膀胱にカテーテルを入れ、
尿はそのカテーテルから袋へ
排泄していました。

 

サポートチンクチャーの絶大なる効果

それまで父からはずっと
尿に関する訴えを聞いていたので、
尿に関するレメディーを送っていました。

しかし、
札幌で実際に父に会ってみると、
私はふと
「あれ?腸が悪いんじゃないか?」
と思いました。

そこで、すぐに
持っていた大腸のサポートチンクチャーを
父に飲んでもらいました。

すると、これまで昼も夜も
2,30分おきにトイレに行き、
トイレにこもりっぱなし。

布団と部屋を往復するだけで、
睡眠もほとんど取れなかった父が、

たった半日のうちに、
体調が劇的に改善していました。

私もとても驚いたし、
父自身が一番喜んでいました!

それまで続いていた水便がとまり、
固形の便が出るようになり、
長いときは5時間ほど
眠れるようになりました。

とても外出できる状態ではなかった父が、
一度は私と息子と3人で車に乗って、
近くのホームセンターに行くことができました。

 

行きは私が運転したのですが、
帰りは雪道の中、
父自ら「運転したい」と言って、
なんと運転することもできました。

その後、父が運転して、
母ともスーパーに買い物に行きました。

 

 

 

「お葬式は家族葬にしてくれ。」
と完全に諦めていた父が、
生きる希望を持てた瞬間だったと思います。

それから、亡くなる数日前に尿毒症になり、
意識が混濁したことがあったのですが、

それも予め寅子先生から指示があった
窒素のサポートチンクチャーを父に与えると、
すぐに回復しました。

サポートチンクチャーの凄さを
目の当たりする出来事でした。

 

検査でわかった父の病状とは?

その後、札幌の大きな病院で、
10日間にもわたる検査の結果わかったのは、
大腸と膀胱の間に、赤ちゃんの頭ほどの大きさの腫瘍があり、
直腸と膀胱ともに浸潤しているということでした。

↑実際に医師が書いた図

 

そのため、膀胱や直腸の
すべてを取らなくてはいけない、
骨盤内臓器全摘という手術しか
残された道はないということでした。

腸や膀胱、前立腺を全摘し、
お腹に二つの穴をあけ、
ふたつの袋をぶら下げ、
ひとつに尿を、
もうひとつに便を排泄するという手術です。

↑実際に医師が書いた図

しかもその手術は10時間以上かかる大手術で、
執刀する医師が多いため、2週間後に行い、
選択肢はその日以外にないというものでした。

そして手術をしなければ余命は半年であると。
病状の説明と同時に、手術日を伝えられました。

検査入院のつもりで病院にきた父は、
また家に帰れると思っていました。

それなのに、そのまま入院を続け、
2週間後に大手術を受け、
骨盤内の臓器をすべて取るという選択肢を迫られ、
父も母も私もとても悩みました。

 

実は私の義母が、子宮を全摘しています。
50代で子宮筋腫になり、
お医者さんに勧められるまま全摘手術を受けたのです。

するとその後、
その上の臓器が下垂するなどして、
大変な腰痛になり、苦しい想いをしていました。

その様子を知っていたので、
骨盤内臓器全摘は、どれほど大変なことだろうと、
私は素人ながら想像していました。

 

私たちの決断

病院への不信感もあり、
雪の積もる札幌で、
足の悪い母一人で、
父を看病するのは、
難しいだろうという結論になり、
札幌での手術は断ることにしました。

なかなか退院も許されず、半ば脱出といった感じで、
仮退院という形で病院を出ました。

 

そして、私と母の二人体制で、父の看病ができるように、
両親ともに、私の住む千葉の家の近くにアパートをかり、
そこで養生することを決断し、

両親がそろって、飛行機に乗って、
千葉へやってきました。

それから毎日、私は近くのアパートにいる父の元を訪れ、
父の様子を見たり、できることをやっていました。

 

私の誕生日を迎え・・・

そんな中、私の誕生日が来て、
父と母と私の家族でお祝いした日がありました。

結婚して北海道を出てしまった私は、
もう二度と両親の近くで暮らせることはないだろうと思っていたので、

こうやって歩いてすぐのところに両親がいるという生活を、
たったの1ヶ月だけど経験できたことは、とても幸せでした。

 

寅子先生の相談会を受け、言われたことは?

そして2月中旬、幸運なことに、
父は寅子先生の健康相談会に入ることができました。

健康相談会で、
寅子先生が父にきいたことはこうでした。

「あなたは小学校の先生でしたから、
子供のたちの面倒をみるために、
トイレを我慢しませんでしたか?」

父は、こう答えました。

「はい。
とくに低学年の子供たちの担任をしていたときは、
朝こどもたちが来てから、
放課後に帰るまで、
一度もトイレには行きませんでした。」

 

教育大学を卒業し、小学校の先生となり、
仕事熱心で、とても真面目だった父は、
こどもたち最優先で、
自分のトイレは我慢していたのでした。

 

これをきいた寅子先生は、こう言いました。

「これまであなたは、膀胱や腸の言うことを聞かず、
負担をかけてきたんです。

お腹の声に耳を傾けることなく、
無視し続けてきたから、
膀胱や腸が弱くなって、
その臓器が犠牲となってそこにガンを集めたんだよ。

これからあなたは膀胱と腸と和解しなくてはいけない。
これまで我慢して悪かったね。と声をかけてあげて、
トイレに行きたいときは、我慢せず行ってあげてください。」と。

その言葉をきいた父は、
「はあー。」と深くため息をつきました。
図星だったのです。

 

そして寅子先生は、こう続けました。

「あなたは、結構人を批判してきたんじゃないですか?
でもその批判してきた分だけ、自分のことも批判してきたよね?

“これが正しい”という思いが強く、
負けないように、勝たなければいけないと、
そうやってきたんだよね?

でももう許していいんだよ。
負けてもいいんだよ。」

と。

父の名前は、
勝つと書いて勝(まさる)だったのですが、
寅子先生は、

「勝さんは、まさにずっと勝とうとしてきたんだよね。
だけど、負けてもいいんだよ。」と。

父は「はー。」とうなだれて、
そして涙を流していました。

寅子先生が、父に話したのは、
誰かや自分を責めるのでもなく、
ガンと闘うことでもありませんでした。

負けてもいい、できなくてもいいと、
自分を許し、
ガンを受け入れることでした。

 

 

最初はホメオパシーに否定的だった父も、
ホメオパシーは受け入れるようになっていたのですが、
実は、寅子先生のことは、信用していませんでした。。。

そんな父を、
たった1時間で虜にしてしまった寅子先生の相談会は、
まさに圧巻で、
ホメオパスである私にとって、とても勉強になるものでした。

 

それ以降、父はすっかり寅子先生を信頼するようになり、
先生に教わったことをすべてを実践していました。

父は、本当によくトイレに通いました。

一日に何十回と、
トイレに行きたいと少しでも感じたときは、
すぐにトイレに向かっていました。

あるとき私が、
「お父さん、こんなにも苦しめる腸と膀胱を恨んでるんじゃない?」
と聞くと、

父は「いいや、よくがんばってくれている!」
そう言ってお腹をさすっていました。

そして、その後、
体調が悪化し、
救急車で運ばれ入院となりましたが、
寅子先生からレメディーの指示があると、

「寅子先生の直接の指示か。
すごいなあ。
ありがたいなあ。」

と言って、
いつもとても喜んでいました。

病室で私が父に伝えたこと

病室の枕元で、あるとき私は父にこんな話をしました。
それは私がこの学校で寅子先生に教わったことです。

「お父さん、あらゆる病気の根っこにあるのは、
罪悪感と自己否定なんだって。

本来、誰もが親から愛されたいよね。

だけど「愛されていない」
「自分には価値がない。」
と感じる出来事があって、

「こうでなければ愛されない!」と
それぞれの価値観を持って、

その価値観で自分を裁き、
魂に傷をつけ、病気になるんだよ。

なぜ人が生きているかと言えば、
その価値観を手放し、傷を癒し、
魂をツルツルに磨くために、
何度も生まれ変わり、
輪廻転生をしているんだって。

 

その傷を癒すには、
親から愛されることを求めるんじゃなくて、
神様のような、無条件の愛を、
自らが自分に注ぐ。

それが、大事なんだよ。」

 

黙ってきいていた父は、
「そうか。それは神道の考え方だな。」
と言いました。

そして、

「自分のやってきたことに自信はあるけど、
無条件の愛を自分に注ぐっていうのは、難しいなあ。」

「無償の愛か。それは母親の愛だなあ。」と、
父の子供の頃の話をしてくれました。

↑近所のお友達と。右端が父。

 

「お父さんが子供の頃、
3、4歳だったかな。
転んで膝をすりむいて、
家に帰ったことがあって。

帰るとおばあちゃんが、
『痛いの痛いのとんでけ~!』と言って、
膝をフ―フ―としてくれたんだ。

気持ち良かったなあ。
その感覚は、今でもよーく覚えてるなあ。」

 

父のインナーチャイルド

父は、5人兄弟の4番目、3人目の男の子として生まれました。
しかもこの5人はなんと7年の間に生まれています。

祖父も祖母も愛情はたっぷり注いでくれたとは思いますが、
父には何かしら不足感はあったのではないかと思います。

2番目のお兄さんは、父と全く違うタイプで、
学校で問題を起こしてくるそんな人でした。
そして父とは仲が悪かったそうです。

しかし、そのお兄さんを、
祖母はとてもかわいがりました。

祖母は私によく
「あのおじさんは恐そうに見えるけど、本当は一番優しいんだよ。」
といつも話していました。

そんなお兄さんをみて、
父はますます
「真面目に、正しく生きなくてはいけない!
間違ったことをしてはいけない!
そうでないと愛されない!」
と価値観を強めていったのだと思います。

父が病後、一番泣いたのも、
94歳になる祖母と、電話で話した時でした。

「退職したら、親孝行しようと思っていたのに、
何もできなくてごめんね!
夏には元気になって会いにいくからねー!」

と大きな声で言って、
病室でおいおい泣きました。

実は、父が亡くなったその3か月後の7月、
94歳だった祖母も亡くなりました。

父の死を知らせたとき、
「私を連れてってくれなかったんだね。」
と泣き続けた祖母を、
父が穏やかにいけるよう迎えに来たようです。

5人兄弟で一番先に逝ってしまった父は、
今天国でお母さんを独り占めできて、
喜んでいることでしょう。

 

私のインナーチャイルド

父がガンになったとわかってから、
私は父を生かすために必死でした。

札幌と千葉を何度も往復したし、
父が近くに引っ越してきてからは、
毎日父の様子を見に行っていました。

病院に入院してからは、
一日に何度も病院を往復したし、
できるだけのことはすべてやったつもりです。

 

でもそれだけ力を尽くしたのは、
やはり自分のインナーチャイルドが、
「お父さんに愛されたい!」と
願っていたゆえでした。

 

姉に比べ優秀でも、綺麗でもなかった私は、
「優秀でなくては愛されない!」とがんばっていたし、

反抗期の姉にてこずる父を見て、
「私はいい子でいることで愛されよう」と
無理して明るく振舞っていました。

 

今振り返ると、
そんな「父に愛されたい!」という
あらゆる私のインナーチャイルドを総動員して、
父の看病をしていたと思います。

父が生きている時は、メールを送ると、
父から返事が来ることがとてもありがたいと感じ、
その時間を噛みしめたり、

私が子どもの頃、居間で寝てしまった時、
父に抱っこで自分の部屋に連れて行ってもらったのが
気持ちよくて、嬉しかったなあと、

子どもの頃のことを思い出したりして、
自分のインチャを癒すよう努めました。

 

息子のインナーチャイルド

当時8才だった私の息子にとっても、
病気の父が、自分の側にきたことは、
大きな出来事でした。

 

一人っ子で、いつも自分中心だった彼にとって、
父の存在は大きな弟ができた感じだったようです。

ある時、私が父のことで精一杯で、
息子のことを構ってあげられなかった時、
息子が突然泣き出して、こう言いました。

「ママ、俺が次泣いたら、
ママはもうじいちゃんと話しちゃダメってことね!」

自分がいつも中心ではないということを経験する、
彼にとっては試練だったかもしれないけど、
とても貴重な良い体験だったと思います。

 

父の最期

そんな時を過ごし、
少しずつ父の最期が近づいてきました。

4月7日の早朝。
父からSOSのメールが来ました。

急いで病院へ駆けつけてみると、
強い痛み止めをうたれた父は、
変わり果てた姿でベッドで寝ていました。

今振り返ると、前日に大きな痛みがあり、
腫瘍が破裂したのだと思います。

私も強い痛い止めを使いたくなかったし、
父も「あんなものは効かない!」と痛み止めを拒んだので、

最期はとても痛がり、
「包丁で刺してくれ。」
「逝かせてくれ。」
と父に何度も言われ、
私はとても苦しい思いをしました。

不思議なことに、
それまでとっても元気だった母が、
その日だけ熱が出て家に帰ってしまったため、
父の最期は私一人で看取りました。

 

強い痛み止めを使わず、
父が最期とても苦しんだことで自分を責め、
壮絶な最期を看取ったことが苦しかった私は、
その想いをのちに寅子先生に吐露しました。

 

すると寅子先生は、

「お父さんは、あなたがホメオパスだから、
あなたを選んだんだよ。
お母さんだったら頭が狂っただろう。」

「苦しむことでカルマを払うから、
それでいいんだよ。」

と教えてくれて、
優しく抱きしめてくれました。

その寅子先生の言葉で、
ようやく私も自分を許せるようになりました。

4月8日。

父が他界したのは、お釈迦さまの誕生日でした。
外では桜が満開でした。

北海道では見られない、
関東の壮大な綺麗な桜を父に見せたかったのですが、
その想いは叶いませんでした。

父を看取ったあとは・・・

父が亡くなったあともなお、
私の中で、手術を受けない選択は正しかったのか?
父は本当はどうしたかったのか?を問い続け、
自責の念や後悔の気持ちがありました。

そんな中、お葬式から1週間後。

外科に務める看護師の友達が、
「お父さんに、会いに行ってあげてと言われた気がして、
仕事を切り上げてきた。」
と父にお線香をあげに来てくれました。

 

そしてこう教えてくれました。

「骨盤内臓全摘という手術は、
手術の中でも1,2位を争う大変な手術なんだよ。

術後は痛みがひどく、お腹から膿がたくさん出て、
体にホースがいっぱい刺さって、とても辛いんだよ。

手術中に亡くなったとしても、
決しておかしくない、それくらい大変な手術。

亡くなる2日前まで、好きなものを食べて、
おいしいと話すことができたんだから、
本当に良かった!
本当に良い選択をしたね!」

医療現場で、患者さんを
すぐ近くで見ている看護婦さんだからこそわかる話でした。

 

また大阪の船塚千恵ホメオパスが、
私にこう言ってくれました。

 

「お父さんはホメオパシーを選択したのではなく、
さとこさんのことを信頼していたから、
さとこさんの提案を選択したんだよ。

さとこさんがもし西洋医学や他の療法をすすめていたら、
お父さんはそれを選択していたよ。」

 

その言葉を聞いて、
生前の父のある言葉を思い出しました。

 

父の末期ガンがわかり、
治療方針について父と話し合っていたとき、
父はこんな言葉を口にしました。

 

「さとこはそれが一番と思うんでしょ?
じゃあそうする。」と。

 

つい2,3年前まで父は、
「さとこは宗教にはまったな・・・」
「ホメオパスの資格なんてとっても、仕事はないよ。」

そう言っていた父が、
こんなふうに私を信頼してくれていたなんて、
本当にうれしかったです。

父は亡くなるその2日前まで、
自分でトイレに立ち、大好きな甘いものを食べ、
自分でコーヒーを淹れたり、

私や母、そして一番好きだった私の息子、
父の孫と話すこともできました。

たった3カ月という短い間だったけど、
私たちは思う存分父の看病ができたし、

父も最期まで父らしい姿でいられたと思います。

 

手術を受けていたら、
もう少し長く生きられたのかもしれないけれど、
でも、父らしく、人間として尊厳のある形では
生きられなかったと思います。

 

ガンになった原因も、
病院では、「ヘビースモーカーだから、原因はたばこですね。」
それしか言ってもらえませんでした。

しかし寅子先生の相談会を受けられたことで、
父はどうして自分がガンになったのか、
これから何をすればいいのか、

それを知れたことは、
父にとってとても有意義だったし、
体と和解し、自分を許すということもできました。

 

今では、私たちの選択は間違っていなかった、
それで良かったんだと、心から思っています。

 

私の死生観

父の末期ガンや死を目の当たりにして、
私の考え方も大きく変わりました。

最後に父の霊性を引き上げてくれたガンはありがたかったし、

死は避けるべきもの、
少しでも先送りにするものという考えではなく、
それよりもどう生きるかが大事であることもわかりました。

父の最期を看取ったことで、
この世とあの世の境まで、父を見送った感覚が私にはあるのですが、

死というのは、肉体から魂が離れて、
本来の姿に戻るだけ。

こちらの世界が仮の世界で、
あの世の方が本当の世界なのでは?とも感じています。

死は誰もが通る、
一つの通過点に過ぎないのではないかとも思っています。

また父が亡くなってから、不思議なことに、
急に親や、大切な人を亡くした方が
相談会にいらっしゃるようになり、

父があの世で受付をして、
私の所へその方々をご案内しているのではないかと
感じたこともありました。

 

 

 

父の末期ガンと死については、
こんな風に自分の中で解釈、整理できたつもりでいました。

しかし今日のこの発表が決まってから、
つい最近、また新たな気づきと癒しがありました。

 

新たな気づきとインチャ癒し

実は私、2週間前から、
体調を崩し、熱で寝込んでいました。

レメディーなどで一旦は良くなったものの、
再び熱が上がり、
5日経っても体調がなかなか回復しません。

そこで、ふと
これはインナーチャイルドを癒さないと、
ダメかなと思いました。

どんな価値観を持っているんだろう、
どんな思いを抑圧したんだろうと色々考えて、
そして『サポート支え』をとってみました。

 

すると、ふと、「父のことを支えた期間とても辛かった。」
という想いがあふれ出て、声をあげて泣きました。

これまで何度も父のことで泣いてきたけど、
それはすべて父のことを想って、
父のために泣いていたのです。

 

しかし、

「重い責任を背負い、
自分もどうしていいかわからない中で父を支え、
大変な父の最期も看取り、私はとっても辛かった。。。」と
ようやく自分のために泣くことができました。

父が亡くなってから5年半経っていますが、
あの時の自分の想いに共感し、たくさん泣いて、
ようやく自分を癒すことができました。

すると次の日は、見事に熱が下がっていました。

 

末期ガンの父を看取って学んだこと

父のガンを通して、私はたくさんの経験をさせてもらい、
またたくさんのことを学び、
そして多くの人に支えてもらいました。

12月の末に体調を崩し、
トイレと布団を往復するだけで、
夜中も全く眠れなかった父が、

運転したり、買い物に出かけたり、
飛行機に乗って移動ができたのは、

本当に奇跡的な回復だったし、
ホメオパシーのおかげであることは間違いありません。

 

しかし同時に、西洋医学もなくてはならないものでした。

検査を受けなければ、
父の体に何が起こっているのか、
どこに腫瘍があるのかわからなかったし、

排尿をサポートしてくれるカテーテルがなければ、
父が生活することは困難でした。

終盤、「窓から飛び降りようかと思った。」と言うほど
父を襲ったガンの痛みも、痛み止めがなければ、
父にとってはあまりに酷でした。

 

私の中で、西洋医学よりホメオパシーが勝る!
と思っていたけど、
そうではなく、
どちらの医療もそれぞれ素晴らしいと、
心から思えるようになりました。

 

また、父にガンになった意味と、
どう生きるかを教えてくれて、
さらに苦しかった私のことも救ってくれた寅子先生には
感謝しかありません。
ありがとうございました。

そして何より、自らの命を通して、
私にたくさんのことを教えてくれて、
成長の機会をくれた父と父のガンに、
心から感謝しています。

この経験を通して、
私から、

ガンになられた方、
ガンの家族をサポートする方、
家族の看病をする方、
親を看取った方、
これから看取る方に、
伝えられることがあるとしたら、

 

・一日一日を大事にして、伝えたいことは、今伝える。

・どんなことがあっても自分を責めず、自分を許す。

それから

・トイレを我慢しない。

ということかなと思います。

 

父と私と家族が過ごしたこの3カ月が、
いつか誰かのお役に立てれば、とても嬉しく思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

↑札幌から駆けつけた母と

 

現在、
10月9、10日に行われた
コングレス、

『お子さんのアトピーを通して、
母親の自死を乗り越えたケース』
(1日目・朝の部・0:13:30〜)

10月23日に行われた、
アフターコングレス、

『ワクチンとインナーチャイルド』
(0:40:00〜)
が視聴可能です!

いずれも無料となります。

ぜひご覧ください!

 

『オメオパティア』
(日本ホメオパシーセンター東京渋谷駅前・千葉船橋本町・名古屋金山)
代表 工藤聖子